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| 紀元前 |
シベリアからアラスカへ人類が移動 |
| 1742年 |
ロシアの探検家ベーリングがアラスカの存在を確認 |
| 1743年 |
ロシア人によるラッコ狩猟が始まる |
| 1784年 |
シベリアの商人グレゴリー・セレコフがコディアック島に拠点を建設 |
| 1867年 |
米国特使スワードがアラスカをロシアから買い受ける |
| 19世紀末 |
ゴールドラッシュ
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| 1942年 |
日本がアリューシャン列島を攻撃 |
| 1959年 |
アラスカが米国49番目の州に |
| 1968年 |
北極海に面したプルドー・ベイで大規模な油田が発見される |
| 1977年 |
北極海とアラスカ湾を結ぶトランス・アラスカ・パイプラインが完成 |
| 1989年 |
エクソン社のオイル・タンカーが座礁、世界的な石油流出事故 |
[アラスカへの人類の移動]
現在はベーリング海峡で隔てられているシベリアとアラスカだが、遠い昔、ここが陸続きになった時代が2回あった。1回目は3万6000万年前から3万2000年前、2回目は2万8000年前から1万3000年前(諸説ある)。この時期に、北半球で氷河が大量に発生し、このため海水面が100メートル以上も降下したのだという。
のちに「ベーリンジア」と呼ばれるようになる巨大な「陸橋」は、2度目のときには幅1500キロ以上にもなった。シベリアに暮らしていた狩猟民族が、マンモスなどの動物たちを追ってアラスカにやってきたのはこの時代のこと。さらに、海面が上昇してベーリンジアが姿を消したあとも、カヌーで移動してきた人々がいた。その一部はアラスカの地に定住し、さらに一部は南下して、南北アメリカ大陸全体へと移動していく。これが現在、アメリカ大陸で先住民族と呼ばれる人々の祖先にあたる。
[アラスカの「発見」]
海にはオットセイやラッコ、トド、陸にはオオカミやキツネ、そしてシロクマ――多くの動物たちと、そして先住民族の人々が暮らしていたアラスカの地に、新たな足跡が聞こえてくるのは18世紀に入ってからのこと。ロシアの皇帝ピョートル大帝が、領土の拡大や資源の発見を狙い、デンマーク生まれの軍人ベーリングに命じて、東方探検に出発させたのだ。
ピョートル大帝の死後、さらに探検を続けたベーリングは、1741年にアラスカの島に到達。ベーリング本人は帰路に病気で死亡したものの、生き残った探検隊員がラッコの毛皮などを土産物として持ち帰ったことから、ロシアでは「毛皮の宝庫」でもあったアラスカへの興味が一気に高まる。翌年には、毛皮商人セレコフがコディアック島に拠点を建設。ロシア領を宣言した。
毛皮による利益を狙ったロシア人が多数やってくる中で、ビーバーなど毛皮動物の数は激減。また、先住民族の間には、ロシア人によって持ち込まれた新しい病気が蔓延したほか、奴隷のような形で労働につかされる人々も多かった。一部ではロシア人に対する抵抗運動も起こったものの、あっけなく制圧されてしまう。
[アラスカの「購入」]
当初は毛皮の売買によってロシアに富をもたらす存在だったアラスカだが、乱獲によって動物たちの数は激減。毛皮も枯渇状態になり、徐々にその存在価値は減少していった。
そして19世紀後半、クリミア戦争の失敗によって苦しい経済状態に追い込まれたロシアは、米国政府に「アラスカ購入の意思」を打診する。この売買交渉は1867年には実を結び、アラスカはわずか720万ドルで米政府に売却された。
土地の面積から考えれば格安の価格ではあったが、当初アラスカは「役立たずの土地」と信じられていたため、この売買契約をまとめた米国務長官スワードは激しい非難を浴びた。しかし、売却からわずか30年後、1896年の冬には、アラスカとカナダとの国境沿いに大規模な砂金鉱床が発見される。その後も相次いで大規模な金鉱床が発見され、ゴールドラッシュに沸くアラスカには、富を求めて大勢の人々が移り住んだ。 |
スワード寄港地インフォメーション |
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