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| 700年頃 |
南米から移住してきた先住民族アラワクが定住を始める |
| 1494年 |
コロンブスがヨーロッパ人として初めてジャマイカに到達 |
| 1509年 |
スペイン人が現在のオーチョ・リオス付近にアラワク族を収容する町を建設
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| 1538年 |
首都が現在のキングストン近郊、スパニッシュ・タウンへ移される |
| 1655年 |
イギリスの支配下に |
| 1734年 |
第一次マルーン戦争
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| 1838年 |
奴隷制廃止 |
| 1869年 |
首都がキングストンへ移される
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| 1959年 |
イギリスがジャマイカの自治を認める |
| 1962年 |
イギリスから独立
ジャマイカ労働党(JLP)のアレクサンダー・ブスタマンテが初代首相に |
| 1972年 |
人民国家(PNP)のマイケル・マンリーが首相に
以後、2大政党が交互に政権を奪取
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| 1974年 |
「民主社会主義」を宣言、非同盟路線を推進する |
| 1980年 |
親米路線をとり、キューバと断交 |
| 1994年 |
キューバと国交回復 |
[先住民アラワクとスペインの侵略]
ヨーロッパ人の来る前のジャマイカに暮らしていたのは、アラワクと呼ばれる先住民族の人々だった。 ガイアナなど南米から移住してきた彼らは、芋やキャッサバを育て、魚をとって暮らしていたという。
1494年、「黄金の国ジパング」を求めて航海を続けていたスペイン人、クリストファー・コロンブスの一団が、 ヨーロッパ人として初めてジャマイカに上陸する。
これをきっかけに、「戦いを好まず、友好的だった」アラワクの人々によって奴隷とされ、またたく間にその数を減らして行くこととなった。
過酷な労働に加え、スペイン人の持ち込んだ新しい病気によって命を落とした物も多かったという。
コロンブスによる「発見」からわずか50年ほどのあいだに、10万人近くもいたというアラワクはほぼ全滅してしまったという節もある。 奴隷労働力を失ったスペイン人は、今度は遠くアフリカから奴隷達の「輸入」を始めた。
現在ジャマイカに暮らす人達の大半は、この時にアフリカから連れてこられた黒人奴隷達の血を引く人々である。 また、これに端を発したジャマイカの奴隷制は、支配者がイギリスに変わり、1838年に英国会議で廃止が決議されるまで続いた。
[第一次マルーン戦争]
マルーントは、ジャマイカのスペイン統治時代に奴隷としてアフリカから連れてこられた後 逃亡して内地の森林地帯に逃れて暮らしていた人々のことを指す。 スペイン語の「マラーノ」(荒くれ者)という言葉が変化して、こう呼ばれるようになったという。 1655年、イギリスが、スペインとの闘いの末にジャマイカの支配権を手にすると、彼らマルーンは、その最も大きな抵抗者となった。 彼らに対するイギリスの鎮圧自体は17世紀から始まっていたが、中でも最大の物となったのが、18世紀初頭(年代は諸説ある)の第一次マルーン戦争である。マルーン達の展開するゲリラ戦に、 土地カンのないイギリス軍はひどく苦しめられたという。
[独立と二大政党の対立]
スペイン、そしてイギリスの植民地支配を長く受けたジャマイカは1962年、 カリブ海の英植民地としては初めて独立を達成、ジャマイカ労働党(JLP)のアレクサンダー・ブスタマンテが初代首相に就任した。 しかし1972年に行われた総選挙で首相に選出されたのは、 人民国家(PNP)のマイケル・マンリー。
以後ジャマイカは、労働党と人民国家党、ふたつの政党が対立し、 政権を交互に奪取する混乱の時代に入っていくことになる。 安定しない政局を反映して、経済は低迷し、貧困が全土にはびこった。1976年には、レゲエのトップスター、
ボブ・マリーが争いに巻き込まれ、暗殺されかけるという事件も起こっている。
1989年の総選挙では人民国家党が圧勝。以後3期連続で政権を担当し、 ようやく長期政権となった。 しかし、貧困と治安の悪化など、問題は数多く残されたままだ。 |
モンテゴベイ寄港地インフォメーション |
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