10月17日  ▼もっと知りたいマケドニア
/ベルタン・スリム、マーティン・ペトコフスキ(ピースボート国際奨学生)
マケドニア出身のIS(ピースボート国際奨学生)のマーティン(写真右)とベルタン(写真左)による2回目の講座。同じ国に暮らしていた二人だが、マケドニア、アルバニアと、それぞれ属する民族は異なる。前回の講座で会場から出た質問に答える形式で、それぞれの立場に基づいた、様々な体験や考えを語ってもらった。
Q:対立する民族の友人を持つことについて
マーティン:「差別を無くすのは非常に困難なことです。私自身も、私にアルバニア系の友人がいるということをマケドニア系の友人が知って、私自身が差別を受けることになったという経験があります。後で、マケドニア系の友人にアルバニア系の友人のことを説明しましたが、それは非常にエネルギーのいる作業でした。人の考えを変えるのに必要なのは『時間』。しかし、まずその前に自分の中の『差別』について考えることが必要なのだと思います。」
Q:コソボ紛争時のマケドニアにおけるアルバニア人の状況は?
ベルタン:「ユーゴ連邦軍による『民族浄化』により、たくさんのコソボのアルバニア系住民が難民となり、うち40万人がマケドニア共和国に流れてきました。マケドニア系住民は『彼らがこのままマケドニアに留まって、自分たちが少数派になってしまうのでは?』と不安を募らせ、難民のみならずアルバニア系住民に対しても排除するような態度をとるようになりました。実際、私にはマケドニア系の同僚が105人いたのですが、ひとりとして私に話しかけようともしなくなったのです。
実際には、懸念されていたようにアルバニア難民がそのままマケドニアに留まるようなことはありませんでした。が、このできごとは私にとっては友人について知る良い機会となりました。 その後、しばらくすると今度は、マケドニア系の人々は、『マケドニア国内に暮らすアルバニア人は良い奴らだけど、難民として流れて来たのは悪い奴らだ』と言うようになったのです。昨日まで排除していたはずのアルバニア系住民を突然、兄弟扱いです。情報の操作とはいかに容易なものか、身をもって知ることにもなりました。」
ドブロブニク・モスタル・サラエボ
/ヤスナ・バスティッチ(ジャーナリスト、ピースボートスタッフ)
吉岡達也(ピースボートスタッフ)
旧ユーゴスラビアの三都市、ドブロブニク、モスタル、サラエボ。サラエボ出身のジャーナリスト、ヤスナ・バスティッチさんとピースボートスタッフの吉岡達也が、その歴史と現在を、スライドを交えながら解説した。
「15世紀のアドリア海周辺は、ほとんどすべての勢力がオスマン・トルコ帝国かベネチア共和国のいずれかの側につくという、東西冷戦のような時代でした。しかし、ドブロブニク共和国は両方の国の貿易拠点という役割を担い、税金を双方に支払うことで、中立という第三の道を選んだのです。
日本の政治家の一部は湾岸戦争の時に130億ドル出しても、血を流さなかったから恥をかいたと言ってます。
しかし、その何百年も前にドブロブニクという町では『お金も自分たちの大事な財産であり命に関わるものである。だからこそ、血を流すぐらいなら、お金を払って平和を守ろう』という発想をもっていたのです。
つまり、非軍事的な『安全保障の概念』です。当時では希有な、平和ということに強いこだわりを持っていた町、それがドブロブニクなのです。」
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