サッカー交流特別寄稿/金丸好知(自由文筆家)
1993年10月。ペルシャ湾岸にある国カタール。巨大なアラビア半島からまるで小指のように頼りなげに突き出た半島国家の首都ドーハでは、翌年にひかえたFIFAワールドカップ・アメリカ大会のアジア地区最終予選が行なわれていた。

僕は日本代表のW杯初出場の瞬間を見るためにバンコク経由で、この中東の小国へ飛んだ。そして日本が宿敵・韓国を1対0で破るという歴史的なシーンに遭遇した。日本勝利の余韻にひたりたく、僕は直後に行なわれた第2試合を見ながらスタンドに佇んでいた。第2試合に登場したのはイラン、そして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)である。北朝鮮は1点を先行するが攻撃力に勝るイランに2点を奪われ逆転負けした。しかし北朝鮮のスピードやフィジカルの強さはイランにも決して劣ることがなく、さすがに最終予選に勝ち残ったチームであることを見せつけた。何よりも印象的だったのは、北朝鮮の応援だった。朝鮮半島の伝統楽器であるチャンゴの鐘が鳴り響き、パジ・チョゴリの男性が踊っていた。最初は「朝鮮から来たのか?」と思った。が、北朝鮮の国情から考えてもそれは至難の業であった。実は在日朝鮮人の応援団だったらしい。その少ない応援に、何と韓国のサポーターが加わって38度線の北に分断された国からやってきた同胞のプレーに声援を送っているではないか。僕は日本の勝利に酔うはずだったのが、南北コリアの一体となった声援に、思わず感無量になっていることに気がついた。砂漠の上に浮かぶ月が美しい、ドーハの夜だった。

それが朝鮮代表を見た最後の夜になろうとは、このときには夢にも思わなかった。
日本代表のアメリカ行きが夢と消えた「ドーハの悲劇」と同日、別のスタジアムでは北朝鮮と韓国の対戦が行なわれていた。結果は3対0で韓国が勝ち、この勝利によってポイント数で日本を逆転しアメリカ行きを決めた。そしてこの試合を最後に、北朝鮮は国際舞台から姿を消した…。

サッカーを国技とする北朝鮮。ワールドカップ史上、アジアのチームで最高成績を収めている北朝鮮(66年イングランド大会でベスト8進出)。その東アジアの強豪が忽然と姿を消したのだ。その理由は、同胞にして最大のライバル韓国に0対3で完敗したことであった。「国際舞台で好成績をおさめられる競技しか、エントリーを認めない」という国家の方針で、韓国戦の敗北を機に北朝鮮サッカーは世界という舞台を下りた。

2001年9月1日、ピョンヤン・西山スタジアム。ピースボート訪朝団「サッカー交流」に参加した27人は、金日成総合大学のサッカー選手たちと30分ハーフの試合を行なった。2万5000人を収容するスタンド、そして青々とした芝生。3人のレフェリーもいる。電光掲示板には平和VS親善という文字が浮かんでいる。ピースボートの長いサッカー交流のなかで、これほど立派な会場で行なわれたゲームは他になかったろう。そして故・金日成主席の肖像画が飾られたスタンドには、何と観客が。それは金日成総合大学の男女による学生応援団。鐘や太鼓を打ちならして、にぎやかに雰囲気を盛り上げる。ドーハのスタジアムでの北朝鮮の応援が、まざまざとよみがえってきた。ゲームはピースボートと大学生の混成チーム同士の対戦で行なわれる。僕は大学生たちのプレーに、ドーハでの代表選手たちの動きを重ね合わせていた。もちろんスピードもフィジカルも代表と学生では天と地ほどの違いがあるのだが、とにかく北朝鮮のサッカーに再会できたということが、心からうれしかったのだ。

後半、僕は西山スタジアムのピッチに立った。ふかふかとした芝生の感触が心地好い。言葉は通じないが、大学生にパスを通した瞬間、何かが通じあった気がした。試合は4対4の引き分け。最後はピースボートの参加者、大学生選手、そして応援していた学生たちとピッチの上で輪になって踊った。別れの瞬間、お互いの選手同士が「カムサハムニダ(ありがとう)」と声をかけあいながら握手をかわす。試合をしたのはわずか60分だったのに、なぜかとても別れ難い気持ちになった。それはピースボートのメンバーの誰もが同じだったようで、バスでスタジアムを離れるとき、大学生を乗せたバスに向かっていつまでも手を振っていた。大学生も手を振っていた。

「今度は彼らを日本に呼んで試合をしたい。彼らの航空券代は僕らでカンパしてでも出すから。日本と北朝鮮は国交がないけど、スポーツ交流までできないことはないでしょう?」
シュートを決めた男の子が、そう言った。

日本と北朝鮮、そして南北朝鮮には政治的に難しい問題が山ほど横たわっている。悲しいことに、そういった政治の問題が、サッカーというスポーツ交流をも阻んでいる。しかし、この日、僕らは確信したのだ。ボールを純粋に追いかける者に、国交が無いことも政治問題も関係ないのだと。あのとき、ピースボートの参加者も金日成総合大学の選手も、応援していた学生も、ひたすらボールの行方に熱狂し、ゴールに歓喜していた。2002年は日韓だけでなくピョンヤンでもワールドカップを。そしてスタンドにもフィールドにも南北コリアチームがいることを。そう願いつつ西山スタジアムをあとにした。
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